雑煮 歴史・由来・名称 武家社会における儀礼料理説

 


雑煮を元来は武家社会における料理であり、餅や野菜、乾燥食品などを一緒に煮込んだ野戦料理だったのではないかと考える説。この説によれば、正月に餅料理を食する慣習は古代より「歯固(はがため)の儀式と結び付いた形で存在しており、それと関連して発生した。雑煮は元は烹雑(ほうぞう)と呼ばれており、この料理が次第に武家社会において儀礼化していき、やがて一般庶民に普及したものとみられる。雑煮については、武家での儀礼である式三献(しきさんこん)での料理であるとする見解がある。しかし、室町将軍の御成記や武家故実書によれば、式三献は主殿(とのも/しゅでん。寝殿(しんでん))で行われ、その後、会所(かいしょ)に移り、ここで改めて初献から三献までの三献が出された後、五の膳もしくは七の膳までが据えられる膳部となり、さらに四献以下の献部となることがわかる。そして、この式三献では、初献に海月(くらげ)・梅干・打鮑(うちあわび)、二献に鯉のうちみ(刺身)、三献にはわたいりが出されることが通例であるが、これらには箸をつけず、実際に食されることはない。一方、会所に席を移しての初献には、雑煮や五種の削り物が出されることが常である。つまり、雑煮は、式三献ではなく、これとは別の三献のうちの初献に出されるものであるということになる。



江戸時代、尾張藩を中心とした東海地方の諸藩では、武家の雑煮には餅菜(もちな。正月菜(しょうがつな))と呼ばれる小松菜に近い在来の菜類(あいちの伝統野菜)のみを具とした。餅と菜を一緒に取り上げて食べるのが習わしで、「名(=菜)を持ち(=餅)上げる」という縁起担ぎだったという。なお、上記の習わしが武家社会一般の作法だったという説は、誤伝による俗説である(この影響もあり、現在でも名古屋市周辺では餅と餅菜のみの雑煮が見られる)。