羽子板 歴史

 


室町時代の文献『下学集(かがくしゅう)に「正月に羽子板を用いた」という旨の記述があり、これが文献における羽子板の初見だと言われる。胡鬼板(こぎいた)とも呼ばれ、羽子板で突く羽根を胡鬼子(こきのこ)と言い、を食べる蜻蛉(とんぼ)に似せて作られていた。



なお、『下学集』よりも12年古い『看聞日記(かんもんにっき)には「正月五日に宮中で、こきの子勝負をした」との記載がある。「こきの子」とは羽子板のことだと言う。



当初は羽根突きの道具として用いられたが、徐々に厄払いとしても使われるようになり、魔除けとして正月に女性にあげる習慣もこのころ出来たとされる。江戸時代に入ると、歌舞伎役者などをかたどった押絵羽子板(おしえはごいた)が流行し、元禄期以降になると、遊びの道具として定着した。井原西鶴の『世間胸算用』に、正月に羽子板が江戸の市場で他の正月用の玩具と共に売られていたという言及がある。その後種類が増加し、金箔、銀箔を施した高級品も現れ、幕府が華美な羽子板の販売を禁止したり、製造について制約を課すなどの干渉をすることもあった。文化文政年間になると、押し絵により人気俳優などの有名人を模った羽子板も登場、明治時代に入ると、新たな技術が応用され、羽子板の種類は更に増えた。



現代においても、羽子板は運動・遊戯としての羽根突きに使われる実用品と、厄除けや美術品の両方が作られている。アメリカで試験販売が好評だったことから、欧米への輸出を目指す製作会社もある。「江戸押絵羽子板」は東京都により伝統工芸品に指定されている。