日高火防祭り 歴史 ①

 


祭の起源を明示する資料は残されておらず、いくつかの説が提示されている。代表的なものとして以下の二説がある。



一つは、水沢城主・伊達宗景だて むねかげ。水沢伊達氏第4代)が公務で江戸に滞在していた折、1657年明暦3年)1月18日に発生した振袖火事に遭遇し、この時の江戸の惨状を目の当たりにした宗景は、水沢に戻ると火防対策として民間消防隊を組織するとともに、産土神の日高妙見社(日高神社(ひたかじんじゃ))の「日」は「火」に通じ、同社の境内にある水沢伊達氏の祖霊社・瑞山神社(ずいざんじんじゃ)の「瑞」は「水」に通じるとして、人智の及ばぬ災害を神仏の加護によって未然に防止しようと、両社において火防祈願の祭事を創めたという説である。



もう一つは、1735年享保20年)2月22日に水沢城下で168戸を焼く大火が発生すると、時の城主・伊達村景だて むらかげ。水沢伊達氏第6代)は佐々木佐五平を江戸に派遣して火消しの技術を習わせ、城下に民間消防隊「臥煙組」(がえんぐみ)を創設した。その記念行事が火防祭の発祥であるとする説である。



水沢城下町は頻繁に火災に遭い、享保年間以降だけでも5回の大火が記録されている。中でも1859年安政6年)には2度の大火が発生して計562戸が焼失。城下復興の為に大量の木材が必要となり、周囲の山々が禿山になったという。度重なる城下の火災による経済的損失と復興費用の捻出は水沢の町にとって深刻な問題であったことから、この火防の神事が重要視されて今日に至るまで発展し伝承されたと考えられる。



江戸期の祭の様子が書かれた文章が家臣の家に残っており、水沢伊達氏の年中行事として正月22日に行われていることが記され、1805年文化2年)火防加勢踊観覧図(ひぶせかせどりかんらんず)として城主が大手門脇にて祭を観覧した席図等が残っており、屋台行列が大手門前(現在の奥州市役所)から練り歩く事がしきたりとして現在も受け継がれている。