霧島岑神社 由緒
創建年代は不明であるが、天孫降臨から日向三代に関わりの深い神社とされている。社伝によると、国史の初見である『続日本後紀』の承和4年(837年)8月1日条の「日向国子湯郡都濃神。妻神。宮埼郡江田神。諸県郡霧島岑神。並預官社(都農神社(つのじんじゃ)・都萬神社(つまじんじゃ)・江田神社(えだじんじゃ)・霧島岑神社を官社に預かる)」とし従五位上(じゅごいじょう)を授けられたと記載されている「霧島岑神」が当社であるといわれる。『日本三代実録』には、天安2年(858年)従四位下(じゅしいげ)に叙せられている。また、『延喜式神名帳』記載の「日向国 諸県郡(もろかたぐん)霧嶋神社」を当社に比定する説がある(式内社論社)。
神仏習合の時代には、参道途中の別当寺である瀬多尾寺(せたおじ)に大日如来が据えられ、霧島山中央六所(六社)権現とも言われるようになった。その後その名の通り、霧島六社権現の中心として信仰を集め、霧島信仰が隆盛期を迎える。
当初は高千穂峰(たかちほのみね)と火常峰(ひのとこみね、御鉢(おはち、みはち)の旧名)の中間地点「背門丘(せとお)」(宮崎県西諸県郡 高原町(たかはるちょう))にあったが、霧島連山の噴火により社殿がたびたび焼失し、文暦元年(1234年)に天の井が渇水したことから日向国(宮崎県)側の麓に遷座することとなった。しかし、享保元年(1716年)にが噴火し社殿が再び焼失、同10年(1725年)に夷守岳(ひなもりだけ)の筑地に遷座した。明治6年(1873年)に同じく霧島六社権現に数えられていた夷守神社(ひなもりじんじゃ)を合祀した後、夷守神社跡地に遷座し現在に至る。
古来より伊東氏・北原(きたはら)氏等この地を領した諸氏の崇敬篤い名社として栄えた。