ヒメヒコ制 ヤマトヒメ・ヒコ

 


記紀伝承にはヤマトヒメとヤマトヒコすなわち日本の女性統治者と男性統治者を意味する名前も崇神天皇期前後にやはり見られる。ヤマトヒメでは、ヒミコに比定され箸墓に葬られたと伝えられたヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)を始め、その母、ヤマトカグアレヒメ(意富夜麻登久邇阿礼比売)や叔母のヤマトトトワカヤヒメ(倭飛羽矢若屋比売)、崇神天皇の子でチチツクヤマトヒメ(千千衝倭姫命)、垂仁天皇の子でヤマトヒメ(倭姫命)などである。ヤマトヒコでは、崇神天皇の子にヤマトヒコ(倭日子)、景行天皇の子にヤマトネコ(倭根子)やヤマトタケル(倭武)が見られる。このヤマトヒメ・ヤマトヒコの伝承はこの時期の日本で男女の共立的統治の志向があったことを示唆する。しかし、記紀伝承は男子の天皇の単立的統治を正当として、女王やヒメヒコの共立的統治を記していない。これは、結局のところ大王(オオキミ)や御門(ミカド)の軍事カリスマが皇女(ミコ=巫女)の呪術カリスマ対して優勢を占め、両方の権力を一手に握る祭政一致の方向に展開したことを物語っている。垂仁天皇が皇女のヤマトヒメを伊勢神宮斎宮として送ったとの伝承は、日本におけるヒメヒコ制の終わりを意味している。ただし男女の共同統治の伝統はその後も消えず、直系の天皇後継者が絶えた継体天皇期には再びヤマトヒメ(倭比売)やヤマトヒコオウ(倭彦王)の名前がみられる。推古天皇期においても推古天皇がヒメ(兄)を聖徳太子がヒコ(弟)を担い共同統治をしたことが隋書倭国伝(ずいしょわこくでん)に伝えられている。