神武天皇 宮
宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では「橿原宮(かしはらのみや)」、『延喜式』では「畝傍橿原宮(うねびのかしはらのみや)」、『古事記』では「畝火の白檮原宮(うねびのかしはらのみや)」と記す。このほか、『万葉集』にも「可之波良能宇禰備乃宮(かしはらのうねびのみや)」がみえる。伝承地は奈良県橿原市 畝傍町(うねびちょう)の橿原神宮(かしはらじんぐう)。
「橿原」の地名が早く失われたために宮跡は永らく不明であったが、江戸時代以来、多くの史家が「畝傍山東南橿原地」の記述を基に口碑や古書の蒐集を行っており、その成果は蓄積されていった。幕末から明治には、天皇陵の治定をきっかけに在野からも聖蹟顕彰の機運が高まり、明治21年(1888年)2月に奈良県県会議員の西内成郷(にしうち なりさと)が内務大臣山縣有朋に対し、宮跡保存を建言した(当初の目的は建碑のみ)。翌年に明治天皇の勅許が下り、県が「高畠」(たかはたけ)と呼ばれる橿原宮跡(の推定地、現在の外拝殿前広場)を買収。京都御所の内侍所を賜って本殿、神嘉殿を賜って拝殿(現在の神楽殿)と成し、橿原神社(かしはらじんじゃ。明治23年(1890年)に神宮号宣下、官幣大社)が創建された。
明治44年(1911年)から第一次拡張事業が始まり、橿原神宮は創建時の2万159坪から3万600坪に拡張される。その際、周辺の民家(畝傍8戸、久米4戸、四条1戸)の一般村計13戸が移転し(『橿原神宮規模拡張事業竣成概要報告』)、洞部落(ほうらぶらく)208戸、1054人が大正6年(1917年)に移転した(宮内庁「畝傍部沿革史」)。
なお、昭和13年(1938年)から挙行された紀元2600年記念事業に伴い、末永雅雄(すえなが まさお)の指揮による神宮外苑の発掘調査が行われ、その地下から縄文時代後期~晩期の大集落跡と橿の巨木が立ち木のまま16平方メートルにも根を広げて埋まっていたのを発見した。鹿沼景揚(かぬま けいよう。東京学芸大学名誉教授)が記したところによると、これを全部アメリカのミシガン大学に持ち込み、炭素14による年代測定をすると、当時から2600年前のものであり、その前後の誤差は±200年ということであった。このことから記紀の神武伝承にはなんらかの史実の反映があるとする説もある。
またこの時期、第二次拡張事業(昭和13年~15年、1938年~1940年)がなされる。社背の境内山林に隣接する畝傍及び長山部落の共同墓地、境内以西、畝傍山御料林以南、東南部深田池東側民家などを買収。「境内地としての風致を将来した。」(「昭和二十一年稿 橿原神宮史」五冊-三、五冊-五(橿原神宮所蔵))
なお、この事業は国費および紀元2600年記念奉祝会費で賄われた。