神仏分離 明治時代の神仏分離

 


明治元年、明治新政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発した。



神道国教化のため神仏習合を禁止する必要があるとしたのは、平田派国学者の影響であった。政府は、神仏分離令により、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じた。



神仏分離令は「仏教排斥」を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。地方の神官国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持った民衆がこれに加わった。 これにより、歴史的・文化的に価値のある多くの文物が失われた。



新政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を行なったが、明治5年3月14日1872年4月21日)の神祇省廃止・教部省設置で頓挫した。これは特に平田派の国学者が主張する復古的な祭政一致の政体の実行が現実的には困難であったからである。神道の国教化は宣教経験に乏しい神道関係者のみでは難しく、仏教界の協力がなくては遂行できないことは明白であった。そこで、浄土真宗島地黙雷(しまじ もくらい)の具申をきっかけとして、明治5年に神祇省は教部省に再編成、教育機関として大教院を設置、教導職には僧侶なども任命されて、神道国教化への神仏共同布教体制ができあがった。神道国教化にはキリスト教排斥の目的もあったが、西洋諸国は強く反発、信教の自由の保証を求められた。結果、明治8年には大教院を閉鎖、明治10年には教部省も廃止し、内務省社寺局に縮小され、神道国教化の政策は放棄された。代わって神道は宗教ではないという見解が採用された。



神仏分離政策は、「文明化」への当時の国民の精神生活の再編の施策の一環として行われたものであり、修験道陰陽道の廃止を始め、日常の伝統的習俗の禁止と連動するもので、仏教界のみならず、修験者・陰陽師・世襲神職等、伝統的宗教者が打撃を受けた。