葛城襲津彦 記録 日本書紀 ①
『日本書紀』では、神功皇后・応神天皇(第15代)・仁徳天皇(第16代)に渡って襲津彦の事績が記されている。
· 神功皇后5年3月7日条
新羅王の人質の微叱旱岐(みしこち)が一時帰国したいというので、神功皇后は微叱旱岐に襲津彦をそえて新羅へと遣わしたが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられてしまう。これに襲津彦は怒り、使者3人を焼き殺したうえで、蹈鞴津(たたらつ)に陣を敷いて草羅城(くさわらのさし)を落とし、捕虜を連れ帰った(桑原(くわはら)・佐糜(さび)・高宮(たかみや)・忍海(おしぬみ)の4邑の漢人らの始祖)。
· 神功皇后62年条
新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣された。続いて『百済記』(百済三書の1つ)を引用する(『百済記』に基づく一連の主文作成の際、襲津彦の不名誉のため作文を止めたものか)。
『百済記』逸文
壬午年(382年)に貴国(倭国)は沙至比跪(さちひこ)を遣わして新羅を討たせようとしたが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を騙し、惑わされた沙至比跪はかえって加羅を討ってしまった。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせたという。
また「一云」として、沙至比跪は天皇の怒りを知り、密かに貴国に帰って身を隠した。沙至比跪の妹は皇居に仕えていたので、妹に使いを出して天皇の怒りが解けたか探らせたが、収まらないことを知ると石穴に入って自殺したという。