神功皇后 実在性

 


新唐書(しんとうじょ)列伝第145 東夷 倭日本に「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」、『宋史(そうし)列伝第250 外国7 日本国に「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」とあるが、『新唐書』が編纂されたのは10世紀であり、唐時代に日本からの留学生・留学僧が伝えた内容が掲載されたと考えられる。



明治時代以前は、神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして、第15代の帝とした史書もあったが、1926年(大正15年)10月の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)施行以降、皇統譜上の歴代天皇の代数から外された。



明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられていたが、現在では実在説と非実在説が並存している。



日本書紀』において、巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」として、晋書(しんじょ)の女王についての記述が引用されている。このため、江戸時代までは、卑弥呼が神功皇后であると考えられていた。しかし、この年は西暦266年であり、卑弥呼は既に死去しており、この倭の女王は台与(いよ/とよ。臺與)の可能性が高いとされている(ヤマト王権の項など参照)。



また、これとは別に、直木孝次郎は、斉明天皇持統天皇が神功皇后のモデルではないか、との説を唱えている。