神功皇后 事跡

 

 

日本書紀』などによれば、神功元年から神功69年まで政事を執り行なった。夫の仲哀天皇香椎宮にて急死(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。その後に熊襲を討伐した。それから住吉大神神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。



渡海の際は、お腹に月延石(つきのべいし)鎮懐石(ちんかいせき)と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市月讀神社(つきよみじんじゃ)京都市西京区(にしきょうく)月読神社(つきよみじんじゃ)福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮(ちんかいせきはちまんぐう)に奉納されたと言われている。その帰路、筑紫宇美応神天皇を出産し、志免(しめ)でお紙目を代えたと伝えられている。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど、九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。



神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる麛坂皇子(かごさかのみこ。香坂皇子)忍熊皇子(おしくまのみこ)が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰武振熊命(たけふるくまのみこと)の働きによりこれを平定したという。



武家社会の神である八幡神の母にあたる神であり、数多くの武人が神功皇后を崇拝していた。有名なのが八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとの よしいえ)である。



また八幡神と同じく、その言い伝えは、九州はもとより、関東から近畿の大津や京都や奈良や大阪の住吉大社、瀬戸内海を挟んで広島や岡山、そして四国と、日本中に数多く存在する。



今でも全国各地で神功皇后の三韓征伐を祝うための山車が存在しており、その業績をたたえる祭りが多い。