ワケ ワケからキミ・オミへ

 


スクネカバネをもつ唯一の天皇である雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと允恭(いんぎょう)天皇)が5世紀中葉に皇位につくと国々の氏姓は大いに乱れたため、氏姓制度の改革を行った。允恭天皇(倭王の済(せい))はそれまでの国造県主制度に代わって、新たに臣・連・君制度を打ち立てた。この改革によってカバネとしてのワケは廃止され、代わりにキミ(君、公および王)やオミ(臣)が用いられるようになった。



上宮記(じょうぐうき/かみつみやのふみ)逸文にはワケからキミへ変遷のあとが記されている。第11代垂仁天皇(伊久牟尼利比古大王。いくむにりひこのおおきみ)から第26代継体天皇(507-531に至る9世代の系図のうち、伊久牟尼利比古大王の子から3世代はイハツクワケ(伊波都久和希)、イハチワケ(伊波智和希)、イハコリワケ(伊波己里和氣)とワケをカバネとしているが5世代から7世代の継体天皇の母まではアカハチキミ(阿加波智君)、オハチキミ(乎波智君)、ツヌムシキミ(都奴牟斯君)とキミにカバネを変更しているのが読み取れる。その変化の時期は6世紀前半から3-4世代前、つまり5世紀前半となり倭王済であることが確実視される允恭天皇時代となり、臣連君制度の創設と一致している。



稲荷山古墳出土の鉄剣(推定6世紀前半)からはワケからキミへの変化を見ることができる。大彦おおびこ。意富比垝)から3代-5代まではテヨカリワケ(弖已加利獲居)、タカハシワケ(多加披次獲居)、サタキワケ(多沙鬼獲居)と3世代がワケ(獲居)をカバネとしているが、その後はワケを用いず、獲加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ。雄略天皇)の代になってオワケノオミ(乎獲居臣)とオミがカバネになっている(ここでワケはカバネでなく名前の一部となっている)。ここでも雄略天皇の一世代前である允恭天皇の時代にオミのカバネが造られ、それまでワケのカバネを名乗っていたオオビコの系統がオミに変更しているのが読み取れる。