応神天皇 事績

 


神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(神功皇后紀。うみ:福岡県 糟屋郡(かすやぐん)宇美町(うみちょう))、または筑紫の蚊田(応神天皇紀。かだ:筑紫国 御井郡(みいぐん)賀駄郷(かだのさと)あるいは筑前国 怡土郡(いとぐん)長野村 蚊田)で生まれたとされる。神功4年に立太子。応神天皇元年に71歳で即位、同41年に111歳で崩御。『古事記』に130歳。

 


· 日本書紀』によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ。秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を天皇に上奏し援軍を求めた。

 




弓月君(秦氏の先祖)は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦(かつらぎ の そつひこ)の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。 しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。 そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰(へぐりの つくの すくね)と的戸田宿禰(いくはの とだの すくね)が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

 


· 古事記』に「この御世に、海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき。また、剣池(つるぎのいけ)を作りき。また新羅人参渡(まいわた)り来つ。ここをもちて建内宿禰命(たけうちのすくねのみこと。武内宿禰)引い率て、堤池に役ちて、百済池(くだらのいけ)を作りき」。『日本書紀』にも同様の記事が見え、応神五年八月条に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、応神十一年十月条に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。剣池は奈良県橿原市石川町の石川池(いしかわいけ)という。

 


· 『古事記』に、百済の国主 照古王(しょうこおう。百済の近肖古王(きんしょうこおう))が、雄雌各一頭を阿知吉師(あちきし)に付けて献上したとある。この阿知吉師は阿直史等の祖。また、横刀(たち)や大鏡を献上した。また「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので、「命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)。すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師は文首等の祖。また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」。『書紀』の十五年八月条と十六年二月条に同様の記事が見える。また、応神二十年九月条に「倭の漢直(やまとのあやのあたい)の祖阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率て、来帰り」とあって、多くの渡来人があったことを伝えている。




後世、神功皇后と共に八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)に付会され、皇祖神武神として各地の八幡宮に祭られる。