タケミナカタ 記録 古事記・先代旧事本紀における神話
タケミナカタは、『古事記』では葦原中国平定(国譲り)の場面で記述されている。これによると、建御雷神(タケミカヅチ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫った際、大国主神は御子神である事代主神(コトシロヌシ)が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は巨大な岩を手先で差し上げながら現れ、建御雷神に力競べを申し出た。そして建御雷神の手を掴むと、建御雷神の手は氷や剣に変化した。建御名方神がこれを恐れて下がると、建御雷神は建御名方神の手を握りつぶして放り投げた。建御名方神は逃げ出したが、建御雷神がこれを追い、ついに科野国(信濃国)の州羽海(すわのうみ:諏訪湖)まで追いつめて建御名方神を殺そうとした。その時に、建御名方神はその地から出ない旨と、大国主神・八重事代主神に背かない旨、葦原中国を天つ神の御子に奉る旨を約束したという。
以上の神話は『日本書紀』には記載されていない。一方『先代旧事本紀』「天神本紀」では、『古事記』と同様の説話が記載されている。
『旧事本紀』における国譲り神話は諏訪大社の縁起である『諏訪大明神絵詞』(すわだいみょうじんえことば。1356年成立)の冒頭に採用されているが、タケミナカタの敗戦と逃亡、追いつめられ殺されようとした話は見られない。諏訪社の祭神として『画詞』には載せるには不適当と考えたもので編纂者の諏訪円忠(すわ えんちゅう)が削除したと考えられる。
それ日本信州に一つの霊祠あり。諏方大明神これなり。神降の由来、その義遠し。
竊(ひそ)かに国史の所説を見るに『旧事本紀』に云ふ、天照大神みことのりして、経津主の総州香取社神、武甕槌の常州鹿嶋社神、二柱の神を出雲国へ降し奉りて、大己貴の雲州杵築・和州三輪命に宣はく、「葦原の中津国は我が御子の知らすべき国なり。汝、まさに国を以て天照大神に奉らんや。」
大己貴の命申さく、「吾が子、事代主の摂州長田社・神祇官〔第八〕若神に問ひて返事申さん」と申す。
事代主の神申さく、「我が父、宜しくまさに去り奉るべし。我〔も〕違ふべからず」と申す。
「又申すべき我が子ありや。」
又我が子、建御名方諏方社神、千引の石を手末に捧げ来りて申さく、「誰、この我が国に来たりて忍び忍びにかく云ふは。而して力競べせんと思ふ。」
先づ、その御手を取りて即ち氷を成り立て、又剣を取り来て、科野の国・洲羽の海に至る時、建御名方の神申さく、「我、この国を除きては他処に行かじ」と云々。これ則ち〔当社〕垂迹の本縁なり。