菟道稚郎子 考証

 


史書の菟道稚郎子に関する人物描写では、大山守皇子に対して謀略を用いる場面もあるものの、『日本書紀』の自殺の美談に特に顕著であるように、全般に儒教的な色彩が極めて濃いという評価がなされている。また、母が和珥氏出身であること、「郎子」という特殊な呼称、天皇即位をほのめかす多くの表現等から、描写の特異性が指摘される。



これらについて、夭折(『古事記』)・自殺(『日本書紀』)という表現は潤色であるとし、仁徳天皇に攻め滅ぼされたとする説が古くより提唱されており、背景に和珥氏・葛城氏(かつらぎうじ/かずらきうじ)の争いがあったという意見がある。この「仁徳天皇による謀殺説」には多くの説が従っているが、中でもこの争いが記述された意味に対して、菟道稚郎子の物語は和珥氏の伝承が由来であって、郎子を顕彰するという和珥氏の要請を果たしつつも聖帝たる仁徳天皇の構築のために結び付けられた叙述であるという見方がなされてきている。



このように菟道稚郎子を仁徳天皇の脇役とする見方に対して、再評価する動きもある。その中で、『古事記』では「郎子」が皇位継承者の「命」とは異なる用法(前述)である一方、天皇として即位していた扱いの表現もまた見られることから、「皇統譜と並行してありえた天皇」であるとし、記紀に対して「別の古代」の存在が指摘される。似た事例としては「飯豊天皇」(いいとよてんのう)と称される忍海郎女(おしぬみのいらつめ)が見られ、描写法の関わりが考えられる。またこの菟道稚郎子の記事により、皇統の父子継続から兄弟継続への変化が合理的に実現されているとも指摘される。



記紀以外では、『播磨国風土記』にある「宇治天皇」の記載からも皇位に就いていたとする指摘がある