菟道稚郎子 墓 記録
菟道稚郎子の葬送に関する記載として、まず『日本書紀』では「菟道山上」に葬られたと記載されている。
また『続日本後紀』承和7年(840年)の記事には、郎子は遺命して散骨させたという伝承が見られる。
延長5年(927年)成立の『延喜式』諸陵寮(諸陵式(しょりょうしき))では「宇治墓」の名称で記載され、山城国宇治郡の所在で、兆域は東西12町・南北12町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する。この12町(約1.3キロメートル)四方という記載は、仁徳天皇の百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ。大仙陵古墳(だいせんりょうこふん。大山古墳(だいせんこふん))に治定)の8町(約870メートル)四方を大きく上回るものになる。