八幡神 歴史 ②
八幡神は北九州の豪族国造 宇佐(うさ)氏の氏神として宇佐神宮(うさじんぐう)に祀られていたが、数々の奇端を現して大和朝廷の守護神とされた。歴史的には、託宣をよくする神としても知られる。
748年(天平20)9月1日、八幡神は出自に関して「古へ吾れは震旦国(中国)の霊神なりしが、今は日域(日本国)鎮守の大神なり」(『宇佐託宣集』巻二、巻六)と託宣している。しかし、「逸文」『豊前国風土記』に、「昔、新羅国の神、自ら度り到来して、此の河原〔香春〕に住むり」とある。「辛嶋勝姓系図」によると素戔嗚尊(スサノオ)とその息子の五十猛神の子孫であり、天照大神とは親戚にあたる。素戔嗚尊(スサノオ)は日本で生まれてその後に中国や朝鮮に追放されて日本に帰ってきた。さらに三韓征伐前から弁韓などは日本の領土だったことを考えると矛盾はしない。素戔嗚尊(スサノオの子孫である大国主命などが一緒に信仰されている事があるのはそういうわけである。また新羅は古くは辰韓もしくは秦韓と呼ばれ、辰韓人は中国大陸から朝鮮半島南東部に移住してきたとの史書の記述もあるため(「魏書辰韓伝」『三国志』(3世紀後半)、「辰韓伝」『後漢書』(432年)、「新羅伝」『北史』(659年))、中国から朝鮮半島を経由してきた。その後に彼らは秦氏の祖先の弓月君(ゆづきのきみ)らと共に日本に難民受け入れを申請し、数多くの秦氏が応神天皇の時期に日本の保護の元で日本に帰化している。