大伴狭手彦 経歴
『日本書紀』によれば、宣化天皇2年(537年?)10月、新羅が任那(みまな/にんな)を侵攻したため、朝鮮に派遣されて任那を鎮めて百済を救った。また同書によると、欽明天皇23年(562年?)8月、大将軍として兵数万を率いて高句麗を討伐、多数の珍宝を獲て帰還したという(一本には欽明天皇11年(550年?)とする)。
これらとほぼ同様の伝えは『日本三代実録』貞観3年(861年)の記事にも見えており、狭手彦の献じた高句麗の囚が山城国の狛人の祖となったという。
そのほか、『肥前国風土記』松浦郡条、『万葉集』巻5には、狭手彦と弟日姫子(おとひめこ。松浦佐用姫(まつらさよひめ))との悲話が載せられている。