道臣命 業績

 

神武東征において、八咫烏(やたがらす、やたのからす)の先導により久米部(くめべ)を率いて菟田うだ。宇陀)への道を開いた。その功績により神武天皇から名を改めて道臣と名乗るよう言われる。



兄猾兄宇迦斯、えうかし)が神武天皇に押機(おし)という罠を仕掛けた際、道臣は兄猾に「おまえが作った屋敷には、貴様自身が入れ」と述べ、剣の柄を握り、弓に矢をつがえ追い込み、兄猾は自身の罠に押しつぶされて死んだ。道臣はその死体を切り刻み、その地は宇陀の血原(うだのちはら)と呼ばれる。



国見岳で八十梟帥(やそたける)が討たれた後、天皇の密命によりその残党を討ち取った。まず忍坂(おさか)の邑に大室を造り、精鋭を率いて残党と酒宴を開き、宴も酣(たけなわ)になったとき道臣の久米歌(くめうた)を合図に兵たちは剣を抜き、残党を殲滅した。



その前に、神武天皇自ら高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)を顕斎するときにその斎主に任じられ「厳媛(いづひめ)」の号を授けられた(道臣命は男性であるが、女性の名をつけたのは、神を祀るのは女性の役目であったことの名残とみられる)。



神武天皇即位後はじめて政務を行う日、道臣命は諷歌(そえうた)・倒語(さかさご)をもって妖気を払った。神武天皇即位の翌年、東征の論幸行賞として築坂邑(つきさかむら。橿原市鳥屋町(とりやちょう)付近)に宅地を賜わり、特に目をかけられたと記されている。