伊久比売神社 由緒 式内「伊久比売神社」

 


式内「伊久比売神社」の存在は近世以前には既に不明となっており、上述したように頼宣の紀伊入封後に当神社が比定されるようになったのではあるが、『紀伊続風土記』はこの地が『延喜式』以前においては海中に位置しており、従って式内社の鎮座すべき地ではなく、また「社地の形状も大社たる姿なし」と当神社に比定する事には懐疑的で、当神社が式内社であるにせよ、かつては当地の東北方に鎮座していたものを遷したものではないかとする。これに対し、自然地理学的に紀ノ川の流路変更は認められるものの、平安時代に当神社の位置が海中や河道内ではなかったことが判明しているので、楠見地区一円の産土神的な神社が古くから現在地にあった可能性があり、古代には当地一帯が入海(いりうみ。入り江)の沿岸部に相当するとともに、付近に紀伊湊が置かれ、以後中世にかけてそこに隣接する市場が置かれたことから市の守護神としての「市姫」を祀る神社が創祀された可能性があ。もっともその場合でも、その神社が式内社であったとは限らず、式内社に比定されたのも江戸時代以降であるため、検討の余地は大いに残されている。