ふとん太鼓 貝塚市のふとん太鼓 ②
本宮の午前中は神輿渡幸が氏子各町を巡る。この時の神輿行列の「猿田彦」は北小学校の男子から毎年選出される。 各町会には数メートルの竹笹で四方を囲われた「結界」の「お旅所」が設けられ神事が行われる。
感田神社の神輿は浅草の「千貫神輿」に匹敵する大きさのため、昭和中期以前は牛が引くのが習わしであったが猿田彦の乗る馬とともに近年は道路交通法上、子供会や子供育成会が引いて次町に引き渡すようになっている。(戦前、在郷軍人会が担いだ時期もあった)。
宵宮の午後からは神社で「湯神楽神事」も行われ貝塚市長が列席する。(一般の神楽は祭礼二日間行われ氏子9町すべての家庭に神楽券が配られる)。
だんじり文化一色の泉州において、旧貝塚町という「せまい」地域(北小学校というひとつの校区)のみに太鼓台の祭礼が続いているのかは諸説あるが、明治の高松彦四郎はじめ大正の開正藤、桜井義国などの名匠と云われる彫師の手がけた作品が今もなお保存され運行されている。 (フル扇の垂木、重厚な枡合枡組み、奥行きのある狭間、欄干から泥台に至る繊細な彫り物の形態は、旧岸和田貝塚(泉州南郡)独特であるゆえに「岸和田型だんじり」「貝塚型太鼓台」と現在でも区別されている。
貝塚の太鼓台は三本締めの帯、梯子、二本のマラ、ふとん部四方の網など一見するだけで違う形態である。 また「せり上げ」と呼ばれる独特の構造により、台座と四本柱から上は別固体である。(台座の枠中に四本柱が入るもうひとつの枠がある。また四本柱は底に固定されず吊っているため上下が可能である)。 担ぎ手の力が直接伝わる台座と四本柱から上部分が違う「揺れ方」をするのはこのためであり、提灯で上部の重みが増す夜は特に顕著である。 前述のとおり貝塚太鼓台で「差し上げ」の慣例がないのは「静止状態」には全く価値観を求めないからであり、担ぎ手が交代するために太鼓台が静止するようなことは一切ない。勢いよく担ぎ続けることが貝塚祭りの真髄である。
それゆえに担ぎ手にとって力尽きるまで落とさずに担ぐ勇壮な醍醐味と、見る者を魅了する繊細な彫り物で埋め尽くされた太鼓台本体、そして何よりも先人の時代から「だんじりは岸和田、太鼓台は貝塚」の伝統概念もあって祭礼二日間の人出は相当な数にのぼる泉州屈指の夏祭りである。