昇殿 院の昇殿

 


院御所における昇殿は、内裏への昇殿が認められた内の昇殿よりは格下とみなされていた。これは院政期に入って実際の政務の場が院庁(いんのちょう)に移った後も同様であり、12世紀の公家日記(『兵範記(へいはんき/ひょうはんき)など)に記された供奉人の名簿においても、内殿上人を優先的に記して院殿上人はその次に記された。それはその院が治天であったとしても変わる事は無かった。これは、当時はまだ天皇を貴族社会の秩序の頂点とみなす空気が強かった事情を反映している。また、院殿上人の選定には院の意向が強く働き、比較的身分にとらわれない昇殿が行われたことも背景にあると考えられている(相対的に内殿上人の方がより身分が高い者が集まることになる)。これは、院御所への武士の昇殿(院昇殿)が内裏への昇殿(内昇殿)よりも先に認められていることからでも理解可能である。



しかし、後鳥羽天皇建久9年(1198年)の退位時に、これまでの慣例であった在位中の昇殿をそのまま院御所に持ち込む規定を取りやめて、80名近い殿上人を44名に削減する「リストラ」(「院殿上人清撰」)を断行した。これは院政運営の都合上、院近臣(いんのきんしん。院の近臣)を信頼できる側近・能吏に絞り込むとともに、希少性を高めてその価値を内殿上人並みに高める効果もあった。以後、治天に仕える院殿上人と内殿上人の社会的地位は同格あるいは逆転するようになった。