焼火神社 歴史 

 


「焼火山縁起」によれば、一条天皇の時代(10、11世紀の交)、海中に生じた光が数夜にわたって輝き、その後のある晩、焼火山に飛び入ったのを村人が跡を尋ねて登ると薩埵さった。仏像)の形状をした岩があったので、そこに社殿を造営して崇めるようになったと伝えている。また、承久年中(1219 - 22年)のこととして、隠岐に配流された後鳥羽上皇が漁猟のための御幸を行った際に暴風に襲われ、御製歌を詠んで祈念したところ波風は収まったが、今度は暗夜となって方向を見失ったために更に祈念を凝らすと、海中から神火(しんか。神聖な火)が現れて雲の上に輝き、その導きで焼火山西麓の波止(はし)の港に無事着岸、感激した上皇が「灘ならば藻塩焼くやと思うべし、何を焼く藻の煙なるらん」と詠じたところ、出迎えた一人の翁が、「藻塩焼くや」と詠んだ直後に重ねて「何を焼く藻の」と来るのはおかしく、「何を焼(た)く火の」に改めた方が良いと指摘、驚いた上皇が名を問うと、この地に久しく住む者であるが、今後は海船を守護しましょうと答えて姿を消したので、上皇がを建てて神として祀るとともに空海が刻むところの薬師如来像を安置して、それ以来山を「焼火山」、寺を「雲上寺」(うんじょうじ)と称するようになったという。



上述したように、元来焼火山は北麓に鎮座する大山神社の神体山として容易に登攀(とうはん)を許さない信仰の対象であったと思われるが、山陰地方における日本海水運が本格的な展開を見せる平安時代後期(11 - 12世紀頃)には、航海安全の神として崇敬を集めるようになったと見られ、その契機は、西ノ島、中ノ島、知夫里島(ちぶりじま)の島前3島に抱かれる内海が風待ちなど停泊を目的とした港として好まれ、焼火山がそこへの目印となったためにこれを信仰上の霊山と仰ぐようになったものであり、殊に近代的な灯台の設置を見るまでは寺社において神仏に捧げられた灯明が夜間航海の目標とされる場合が大半を占めたと思われることを考えると、焼火山に焚かれた篝火(かがりび)が夜間の標識として航海者の救いとなったことが大きな要因ではないかと推定され、この推定に大過なければ、『縁起』に見える後鳥羽上皇の神火による教導も船乗りたちの心理に基づいて採用されたとみることもできるという。 また、『栄花物語(えいがものがたり)では永承6年(1051年)5月5日の殿上(てんじょう)歌合(うたあわせ)において、源経俊(みなもとの つねとし)が「下もゆる歎きをだにも知らせばや 焼火神(たくひのかみ)のしるしばかりに」と詠んでおり(巻第36「根あはせ」)、谷川士清(たにかわ ことすが)はこれを当神社のことと解しているが(『和訓栞(わくんのしおり))、それが正しければ既に中央においても著名な神社であったことになる。