比婆山久米神社 施設

 


社殿の後方に、高さ一丈五尺、幅六間四方の封土があって、内廟は石瑞垣を環らし、外廟は木柵設けてある。柵内は松樹森々として繁茂している。戦国時代の尼子経久は比婆山の崇敬が殊に厚く、冨田より道路を通じ、比婆山に奉行を置いて統括、山嶺に本社三殿及び四間華衣、鐘楼、仁王門を造営し、神領として日次、横屋、峠の内より十数丁歩の土地を附し、神主一人、神官二人、社家五人を置き二社一寺五坊を手厚く保護していた。信仰の山であると同時に冨田城の兵站(へいたん)基地としても重要視していた。尼子氏最盛期の尼子経久は、馬に乗ってこの道を通り参詣したと伝えられている。又、尼子時代末期冨田城籠城の際は、武器兵糧などの輸送に重要な役割を果たしたと伝えられている。しかし、戦乱の兵火により全て荒發に帰した。江戸時代に入り、寛文四年、松平氏が支封を母里に置くや、社領米を附し、社殿を造営し、寛文十三年、社殿を山麓に移した。その後再び山上に社殿を建立して、今日に及んでいる。