玉作湯神社 歴史 概史

 


創建は不詳。



出雲国風土記』(天平5年(733年)成立か)では意宇郡(おうぐん)条に「玉作湯社」と「由宇社」の記載がある(後者は「湯の社」の意か)。



国司では、貞観元年(859年)に「湯坐志去日女命」の神階が無位から正五位下に昇叙された旨と、貞観13年(871年)に「湯神」の神階が従四位下に昇叙された旨が記されている。



延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では出雲国意宇郡に「玉作湯神社」ならびに「同社坐韓国伊太氐神社」の記載が見え、2社が式内社に列している。



中世に入り、『忌部総社神宮寺根元録』によれば建長4年(1252年)に佐々木泰清(ささき やすきよ)から米5石の寄進のことがあったという。また永禄元年(1558年)の棟札では「湯姫大明神」とある。



江戸時代には松江藩からの崇敬を受け、境内に隣接して玉造御茶屋も設けられたほか、代々の藩主による参詣や代参のことがあった。特に享和3年(1803年)には、7代藩主の松平治郷(まつだいら はるさと)から「湖南玉造薬泉神社」銘の額が奉納されている。この頃の史料では、社名について「湯船明神」や「湯船大明神」などと見える。その後、安政4年(1857年)に現在に見る本殿が再建された。



明治維新後、社号を「玉作湯神社」に戻すとともに近代社格制度では当初村社に列し、昭和3年(1928年)3月に県社に昇格した。