因幡の白兎 八上の白兎神社

 


八頭町(やずちょう)には、3つの白兎神社がある。『郡家町誌』(ぐんげちょうし)に掲載されている。



八頭町福本にある白兎神社は、840年前後に仁明(にんみょう)天皇より、位をいただいた。「大兎大明神」を祀っていた大正時代の合祀以前には江戸期築造の社殿があって、蟇股(かえるまた)には「波に兎」と菊の御紋の彫刻が施されている。この福本の白兎神社神社合祀により廃社となり、社殿は八頭町下門尾(しもかどお)「青龍寺」(せいりゅうじ)に移され、本堂の厨子として再利用されている。



八頭町池田には現在池田神社(いけだじんじゃ。「白兎神社」(はくとじんじゃ))と呼ばれる神社があるが、祭神は弁財天、兎神、稲荷神で二つの祠が鎮座する。



八頭町土師百井(はじももい)には、もと白兎神社があり、大正時代に池田の白兎神社と併せて、ご神体は八頭町宮谷の「賀茂神社」に合祀された。いずれも廃社ではあるものの、地元の人たちによって今もなお崇敬されている。八頭町には白兎神社関係の灯篭が下門尾と宮谷賀茂神社(みやだにかもじんじゃ)に残る。



山間の鳥取県八頭郡八頭町、かつての八上郡(やかみのこおり)を舞台とする白兎の話が、石破洋(いしば ひろし)教授の著作『イナバノシロウサギの総合研究』(マキノ書店刊行)をきっかけに広く知られるようになった。



そこに紹介された、八頭町門尾(かどお)の青龍寺に伝えられていた城光寺(じょうこうじ)縁起、土師百井の慈住寺(じじゅうじ)記録によると、天照大神が八上行幸の際、行宮にふさわしい地を探したところ、一匹の白兎が現れた。白兎は天照大神の御装束を銜(くわ)えて、霊石山(れいせきざん)頂付近の平地、現在の伊勢ヶ平(いせがなる)まで案内し、そこで姿を消した。白兎は月読(つきよみの)尊(みこと)のご神体で、その後これを道祖白兎大明神と呼び、中山の尾続きの四ケ村(しかむら)の氏神として崇めたという。



天照大神は行宮地の近くの御冠石(みこいわ)で国見をされ、そこに冠を置かれた。その後、天照大神氷ノ山ひょうのせん。現赤倉山(あかくらやま))の氷ノ越えを通って因幡を去られるとき、樹氷の美しさに感動されてその山を日枝の山(ひえのやま)と命名された。



氷ノ山麓の若桜町(わかさちょう)舂米(つくよね)集落には、その際、天照大神が詠まれた御製が伝わるという。氷ノ越えの峠には、かつて、因幡堂があり、白兎をまつったというが、現存しない。『須賀山雑記(1973年)』(山根達治(やまね たつじ)著 今井書店刊)に掲載されている。



「波に兎」は江戸中期に庶民も広く愛好したことが知られる瑞祥文様である。謡曲「竹生島」の歌詞にも月の兎は水に映った月の中で波の上を跳ねるとある。東北関東九州近畿、各地の寺社の彫刻に「波に兎」の意匠が見られるが、因幡地方には特に集中している。



なお、兎が登場する民話は多く、京都府宇治市の宇治神社(うじじんじゃ)の縁起には、貴人がウサギに導かれる話が伝わる。