田道間守 墓
『日本書紀』『古事記』では田道間守の墓に関する記載はないが、『釈日本紀』巻10(述義6)所引の『天書』(てんしょ/あまつふみ/あめのふみ)では景行天皇が田道間守の忠を哀しんで垂仁天皇陵近くに葬ったとしている。現在、垂仁天皇陵(菅原伏見東陵)に治定される宝来山古墳(ほうらいさんこふん/ほうらいやまこふん。奈良県奈良市)では墳丘南東の周濠内に小島があるが、これが田道間守の墓に仮託され、湟内陪冢(こうないばいちょう)の「伝田道間守墓」として治定されている。
この小島の考古学的な調査は行われていないが、江戸時代の山陵絵図や明治の『御陵図』に島の存在が描かれていないため、明治期の周濠拡張に伴う外堤削平の際に残された外堤の一部と推測されている。ただし『廟陵記』などで周濠南側に「橘諸兄公ノ塚」の記載があることから、その塚を前提として小島が残されたとする説もある。後述する田道間守の菓祖神としての信仰により、現在は小島の対岸に拝所も設けられている。