アメノヒボコ 記録 古事記

 

 

古事記応神天皇記では、その昔に新羅の国王の子の天之日矛が渡来したとし、その渡来の理由を次のように記す。



新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女が1人昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。



天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神(あかるひめのかみ)であるという(大阪府大阪市比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)に比定)。



天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けた。そして多遅摩母呂須玖から息長帯比売命おきながたらしひめのみこと。神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)に至る系譜を伝える。また天之日矛が伝来した物は「玉津宝(たまつたから)」と称する次の8種、

 

l 珠 2貫

l 浪振る比礼(なみふるひれ)

l 浪切る比礼(なみきるひれ)

l 風振る比礼(かぜふるひれ)

l  風切る比礼(かぜきるひれ)

l 奥津鏡(おきつかがみ)

l 辺津鏡(へつかがみ)

 

であったとする。そしてこれらは「伊豆志之八前大神(いづしのやまえのおおかみ)」と称されるという(兵庫県豊岡市出石神社(いずしじんじゃ)祭神に比定)。『古事記』では、その後続けてこの伊豆志大神についての物語が記される。