諸杉神社 歴史
創建は不詳。社伝では、当初は出石神社近くの水上村(むながいむら。現・豊岡市出石町 水上(むながい))に鎮座したといい、現在地に遷座したのは天正2年(1574年)とされる。社名の「諸杉」に関わる多遲摩母呂須玖(但馬諸助)は『古事記』『日本書紀』で見え、かつ天日槍の嫡子にも位置づけられることから、諸杉神社も古くから鎮座したものと推測されている。なお、創建地とされる水上地域は現在も諸杉神社の氏子の関係にあり、祭礼では水上までの神輿渡御が行われる。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では但馬国出石郡に「諸杉神社/諸枌神社」と記載され、式内社に列している。
その後の歴史は詳らかではないが、前述の天正2年(1574年)に山名氏が此隅山城(このすみやまじょう)から有子山城(ありこやまじょう)に移転するにあたり、諸杉神社も水上村から城下の現在地に遷座したという。江戸時代には出石城の山里曲輪(やまざとくるわ)北方に祀られ、城主の小出氏・松平氏・仙石氏から崇敬を受けて社殿造営・神供料寄進等がなされている。仙石氏の城主時代は、参勤交代からの帰国に際して城主自ら諸杉神社に参拝するのが習わしであったという。この江戸時代の頃には社名は「諸杉大明神」とも称されていた。
明治維新後、明治6年(1873年)10月に近代社格制度において郷社に列し、大正13年(1924年)4月21日に県社に昇格した。その間、明治9年(1876年)に社殿を焼失したが、明治17年(1884年)に再建されている。