名草神社 歴史

 


当神社は、東麓の石原集落にある日光院(高野山真言宗)との関係が深い。近世以前は但馬妙見と呼ばれ、妙見(北辰、北斗)信仰の霊地として日本三大妙見の一に数えられた。「名草神社」の社号は明治の神仏分離以降のものである。



石原山日光院(近世以降は帝釈寺(たいしゃくじ)とも)の創建は飛鳥時代と伝える。中世には妙見信仰の地として栄え、守護山名氏の庇護を受けていたが、天正5年(1577年)の豊臣秀吉中国攻めの兵火で衰亡する。寛永9年(1632年)、それまで山麓にあった石原山の本坊日光院を奥の院の地に移した。これが現・名草神社の社地である。明治の神仏分離の際には、日光院は山麓の支院・成就院の地に移された。そして、山上の妙見社を、養父郡の式内社であるが詳細は不明であった名草神社の社殿としたものである。