鍬山神社 歴史 概史
社伝では鍬山宮の創建は和銅2年(709年)といい、当初は面降山裏手、現社地から北西800mほどの医王谷(いおうだに)にあった。面降山には山頂にかけて小祠が点在しており、山頂には八幡宮が降臨したという影向石が残る。周辺には古墳も多く、また三宅地区は屯倉(みやけ)が設けられたという伝承から国衙ないし郡衙があったという説もあり、面降山が一帯の祭政との関わりが指摘される。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「丹波国桑田郡(くわだぐん) 鍬山神社」と記載され、式内社に列している。医王谷出身という医家の丹波康頼(たんばの やすより)も鍬山神社を信仰したといわれ、「医王谷」の名も医学に精通した康頼に由来するという。
地名「矢田」は鍬山神社に関わるもので、8つの神田を持っていたことから「八田」と言われ、のちに源頼政が当地を拝領するにあたって「矢田」に改めたという。また、古くから神輿祭・八日祭・庭燎神楽(にわびかぐら)・競馬(くらべうま/きおいうま/きそいうま)・相撲・猿楽等といった祭礼が行われていたと伝えられるが、天正4年(1576年)に丹波へ侵攻した明智光秀によりそれらの祭礼は廃され、別当寺として大智院(現在は廃寺)が建立された。また、8つの神田も接収された。
慶長14年(1609年)、亀山城(亀岡城)主の岡部長盛(おかべ ながもり)が現在地に新社殿を造営して遷し、社地も寄進した。寛永16年(1639年)には藩主の菅沼定房(すがぬま さだふさ)から社領が寄進された。
延宝9年(1681年)には杉原守親が『祭礼中興記』を記し祭礼を再興。同年に城主の松平忠晴から神輿が寄進され、以来例大祭は口丹波一の大祭「亀山祭(のち亀岡祭)」として賑わった。
明治6年(1873年)に近代社格制度において郷社に列し、昭和3年に府社に昇格した。