傀儡子 概略
平安時代(9世紀)にはすでに存在し、散楽(さんがく)などをする集団として、それ以前からも連綿と続いていたとされる。平安期には雑芸を演じて盛んに各地を渡り歩いたが、中世以降、土着して農民化したほか、西宮などの神社の散所民(労務を提供する代わりに年貢が免除された浮浪生活者)となり、えびす舞(えびすまわし、えびすかき)などを演じて、のちの人形芝居の源流となった。
平安時代には、狩も行っていたが諸国を旅し、芸能によって生計を営む集団になっていき、一部は寺社普請の一環として、寺社に抱えられた「日本で初めての職業芸能人」といわれている。操り人形の人形劇を行い、女性は劇に合わせた詩を唄い、男性は奇術や剣舞や相撲や滑稽芸を行っていた。呪術の要素も持ち女性は禊(みそぎ)や祓いとして、客と閨(ねや)をともにしたともいわれる。傀儡女は歌と売春を主業とし、遊女の一種だった。
寺社に抱えられたことにより、一部は公家や武家に庇護された。後白河天皇は今様(いまよう)の主な歌い手であった傀儡女らに歌謡を習い、『梁塵秘抄』を遺したことで知られる。また、青墓宿(あおはかのしゅく)の傀儡女、名曳(なびき)は貴族との交流を通じて『詞花和歌集』(しかわかしゅう)にその和歌が収録された。
傀儡子らの芸は、のちに猿楽(さるがく)に昇華し、操り人形はからくりなどの人形芝居となり、江戸時代に説経節(せっきょうぶし)などの語り物や三味線と合体して人形浄瑠璃に発展し文楽となり、その他の芸は能楽(能、式三番(しきさんばん)、狂言)や歌舞伎へと発展していった。または、そのまま寺社の神事として剣舞や相撲などは、舞神楽として神職によって現在も伝承されている。
寺社に抱えられなかった多くも、寺社との繋がりは強くなっていき、祭りや市の隆盛もあり、旅芸人や渡り芸人としての地位を確立していった。寺社との繋がりや禊や祓いとしての客との褥から、その後の渡り巫女(歩巫女(あるきみこ)、梓巫女(あずさみこ)、市子(いちこ/いちご))として変化していき、そのまま剣舞や辻相撲や滑稽芸を行うもの、太神楽(だいかぐら)や舞神楽(まいかぐら)を行う芸人やそれらを客寄せとした街商(香具師(やし、こうぐし、かぐし)・矢師(やし))など現在の古典芸能や幾つかの古式床しい生業として現在も引き継がれている。