廃仏毀釈 明治期の神仏分離と廃仏毀釈 ②
廃仏毀釈が徹底された薩摩藩では、寺院1616寺が廃され、還俗した僧侶は2966人にのぼった。そのうちの3分の1は軍属となったため、寺領から没収された財産や人員が強兵に回されたと言われることもある。
美濃国(岐阜県)の苗木(なえぎ)藩では、明治初期に徹底した廃仏毀釈が行われ、領内の全ての寺院・仏壇・仏像が破壊され、藩主の菩提寺(雲林寺。うんりんじ)も廃され、現在でも葬儀を神道形式で行う家庭が殆どである。
一方、尾張国(愛知県)では津島神社(つしまじんじゃ)の神宮寺であった宝寿院(ほうじゅいん)が、仏教に関わる物品を神社から買い取ることで存続している。
廃仏毀釈の徹底度に、地域により大きな差があったのは、主に国学の普及の度合いの差による。平田篤胤(ひらた あつたね)派の国学や水戸学による神仏習合への不純視が、仏教の排斥につながった。廃仏毀釈は、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、神道を国家統合の基幹にしようとした政府の動きと呼応して国家神道の発端ともなった。
一方で、廃仏毀釈がこれほど激しくなったのは、江戸時代、寺院はさまざまな特権を与えられ、寺社奉行による寺請制度で寺院を通じた民衆管理が法制化され、それに安住した仏教界の腐敗に対する民衆の反発によるものという一面もある。藩政時代の特権を寺院が喪失したことによってもたらされた仏教の危機は、仏教界へ反省を促し伝統仏教の近代化に結びついた。
尾鍋輝彦(おなべ てるひこ)は、近代国家形成期における国家と宗教の問題として、同時期にドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクが行った文化闘争との類似性を指摘している。
明治期の神仏分離政策後、政府の意図に反して、仏像・仏具の破壊といった廃仏毀釈が全国的に生じた。廃仏毀釈の原因は地域・事例ごとにさまざまであるが、廃仏思想を背景とするもののほか、近世までの寺檀制度下における寺院による管理・統制への神官・庶民の反感や、地方官が寺院財産の収公を狙ってのことなど、社会的・政治的理由も窺える。政府は廃仏毀釈などの行為に対して「社人僧侶共粗暴の行為勿(なか)らしむ」ことと、神仏分離が廃仏毀釈を意味するものではないとの注意を改めて喚起した。