廃仏毀釈 明治期以前の廃仏運動
仏教が日本に伝来した当初は日本書紀の欽明(きんめい)・敏達(びだつ)・用明(ようめい)各天皇記をもとにすると物部氏が中心となった豪族などによる迫害が行われたが、仏教が浸透していくことによってこのような動きは見られなくなった。戦国時代および安土桃山時代では、小西行長(こにし ゆきなが)などキリシタン大名が支配した地域で、神社・仏閣などが焼き払われた。
江戸時代前期においては儒教の立場から神仏習合を廃して神仏分離を唱える動きが高まり、影響を受けた池田光政(いけだ みつまさ)や保科正之(ほしな まさゆき)などの諸大名が、その領内において仏教と神道を分離し、仏教寺院を削減するなどの抑制政策を採った。
徳川光圀の指導によって行われた水戸藩の廃仏も規模が大きく、領内の半分の寺が廃された。
江戸時代後期の廃仏運動
光圀の影響によって成立した水戸学においては神仏分離、神道尊重、仏教軽視の風潮がより強くなり、徳川斉昭(とくがわ なりあき)は水戸学学者である藤田東湖(ふじた とうこ)・会沢正志斎(あいざわ せいしさい)らとともにより一層厳しい弾圧を加え始めた。天保年間、水戸藩は大砲を作るためと称して寺院から梵鐘(ぼんしょう)・仏具を供出させ、多くの寺院を整理した。幕末期に新政府を形成することになった人々は、こうした後期水戸学の影響を強く受けていた。
また同時期に勃興した国学においても神仏混淆的であった吉田神道に対して、神仏分離を唱える復古神道などの動きが勃興した。中でも平田派は明治新政府の最初期の宗教政策に深く関与することになった。