国府 国府の施設と配置

 


律令において、令制国の中心地である国府には、国司が政務を執った国庁等重要施設が設置されており、国庁の周囲は土塀等によって区画されていた。国庁とその周りの役所群を国衙(こくが)といい、それらの都市域を総称して国府という。現在は役所群のほうを国衙、都市のほうを国府と分けて用いているが、国府と国衙を同一視する説もある。その説によると、国府と国衙は、同時代的には置換可能な語で、歴史的には国府の方が先行し、8世紀には専ら国府という言葉が用いられ、平安時代後期以降に国衙が一般的になったとされている。



各国の差が小さいのは中心となる国庁で、区画の中に中庭を囲んで正殿、東脇殿、西脇殿を冂(けい)字形に配置し、南に正門を持つ。外形上最も整備された形では、南門から出る南北道と、これと交差する東西道が中心街路をなし、その他の官衙、国司館、その他施設が区画割りして配置される。しかし多くの場合国庁を取り巻く建物群の配置の規律は緩い。国府の内と外を区分する外郭線は、国府が城柵に置かれた様な例外を除き存在しない。



国府に限らず、律令制時代の日本では役所の建物を曹司(ぞうし)といい、これ等がまとまった一区画をと呼んだ。国司館(こくしかん)は、守館(しゅかん)、介館(かいかん)など、国司の為に用意された公邸である。元々、国司は国庁で政務を執ったが、平安時代中期以降、国司館が政務の中心になった。国府には正倉が付属するが、奈良時代には徴税実務上郡の重要性が大きく、地方の正倉は大部分郡衙(ぐんが)にあった(例として静岡県藤枝市の志太郡衙(しだぐんが))。また工房があって、国府勤務の官人の需要に応じ、都に送る調庸物を生産した。役所や工房で働く人には、国厨(こくちゅう、くにくりや。国府厨(こくふくりや))から給食が出された。周囲には工房で働いたり様々な雑務を行う労働者が住む竪穴住居群や、更に市場もあった。水運の為に国府津(こうづ)と呼ばれる港が設けられることもあった。また、都と各国府間における短時間での情報伝達と都への税の運搬のため、駅路えきろ。七道駅路)が造られた。



741年(天平13年)以降、国ごとに国分寺国分尼寺が建てられることになったが、それ以前から国府機能と密着した付属寺院を持つ国もあった。平安時代には更に総社が指定された。



これ等の施設が一箇所に集中して建てられると都市的な景観になったが、距離を置いて分散する例も多かった。国衙には国司の他、史生(ししょう)、国博士(くにはかせ、くにのはかせ)、国医師(くにいし)、徭丁(ようてい)などの職員が勤務しており、小国で数十人、大国では数百人の人数規模だった。全体としての人口は、畿内以西の各国や大宰府の様に多い所で2、3千人に達したと推定されている。