物部神社(柏崎市) 歴史 概史
社伝では、延暦14年(795年)に坂上田村麻呂が祈願し、三島郡を神領に定めたという。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、越後国三島郡に「物部神社」と記載されて式内社に列している。その後、院政期の文書では当社は「二田社」として見え、知行国主が二田社神主の補任権を有していた様子が記されている。
その後の動向は不明で、中世に入り『神道集』に「二宮両田大菩薩申、亦土生国大明神名」と見える。この「両田」とは「二田」であり、この記述から当社は越後国の二宮であったとされる。当社が二宮に列していたことは、16世紀以降の起請文に「弥彦大明神・二田大明神」として、一宮の彌彦神社(いやひこじんじゃ。西蒲原郡(にしかんばらぐん)弥彦村(やひこむら))と並び称された様子にも見える。なお『神道集』の「亦土生国大明神名」の記述に関連して、前述のように当社の祭神は土生田山に葬られたという伝承がある。
大永6年(1526年)には室町幕府第12代将軍・足利義晴(あしかが よしはる)から三島郡から3,500貫を神領として授けられたが、天正年間(1573年-1592年)にこれらの神領は没収された。天正10年(1582年)には当地を治めた上杉景勝から周辺6村から計1,070石の寄進がなされたが、慶長3年(1598年)に景勝が会津に移ったことに伴い衰退した。慶長16年(1611年)には越後に入った松平忠輝(まつだいら ただてる)から50石の寄進を受け、慶安元年(1648年)には江戸幕府第3代将軍・徳川家光から朱印地は50石に改められた。
明治4年(1871年)に近代社格制度では村社に列したが、大正12年(1923年)に県社に昇格した。明治40年(1907年)には若宮神社(わかみやじんじゃ)・諏訪神社(すわじんじゃ)を合祀した。