伊須流岐比古神社 歴史

 


かつては、白山と並ぶ北陸地方を中心として広い地域からの尊敬を集める一大霊山であった。



創建は養老元年(717年白山を開いた泰澄により開山したと言われている(崇神天皇6年(紀元前92年)説もあり)。延喜式に記載された式内社の一つである。



治承4年1180年)藤原家通(ふじわらの いえみち)が参拝し、以降勅願寺として保護され、尊敬を受ける。神仏習合の形態であり、伊須流岐比古神社は真言宗寺院の「石動山天平寺」を称していた。天平寺は、院坊360余、衆徒約3,000人の規模を誇った。



中世以降、しばしば焼き討ちにあっては再建されている。南北朝時代には足利尊氏の軍に焼き討ちにされた後、暦応4年1341年)に尊氏の手で再建され、能登国守護畠山氏により保護される。天正10年1582年)上杉謙信死後に七尾に攻め込んだ前田利家に率いられた織田軍と、上杉方についた畠山軍との合戦に巻き込まれ、全山焼き討ちに遭いまたもや焼失、翌天正11年1583年)に、勅命により豊臣秀吉の手で再興されている。



現存する本殿は、承応2年1653年)加賀藩 前田利常(まえだ としつね)により建てられたものであり、建立当時は「大宮」と呼ばれていた。



明治5年1872年)神仏分離令が公布。寺号を廃し郷社に列する。その際、廃仏毀釈が行われ、石動山全山に渡って伽藍・院坊が破壊され、寺としての痕跡は徹底的に破却された。その後、わずかに残された大宮を御輿堂(みこしどう)の場所に移設して、それぞれ本殿・拝殿とした。



富山県射水市放生津八幡宮(ほうしょうづはちまんぐう)では江戸時代より、高岡市二上射水神社(ふたがみいみずじんじゃ)では明治期に休止となり、昭和31年(1956年)より復活し現在も行われている、全国的にも珍しい古代信仰の形態である築山行事(つきやまぎょうじ)が行われているが、ここ伊須流岐比古神社でも明治期まで行われていた。なお3ケ所の主神の見た目から、放生津の「足なし」、二上山の「手なし」、石動山の「口なし」といわれてきた。



現在、地元自治体の手によって発掘調査が継続的に行われており、当時の全貌の解明が進められている。さらに、大宮坊が復元されるなど、史跡公園としての整備を行っている。