城輪神社 由緒 ②
延長5年(927年)の『延喜式神名帳』には記載されていないが、『日本三代実録卷第十』貞観7年2月27日(865年3月28日)条に「出羽國正六位上城輪神」を従五位下(じゅごいげ)に昇叙したと記載されており、さらに『日本三代実録卷第卅七』元慶4年(880年)2月27日条には大物忌神(おおものいみのかみ)、月山神(つきやまのかみ)、小物忌神(おものいみのかみ)と並んで更に神階が昇叙され、従五位上に進んだ事が記載されている。『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』では、元慶4年は秋田城をめぐる元慶の乱が終息した頃であるので、当社はこの乱についての霊験によって報賽を受けたものであろう、と考察している。前述のように城輪神社の社名は城輪柵の存在が前提となっており、同書においても、この神社が9世紀半ば以降に『日本三代実録』に現れるのは、柵が本格的に営まれた平安時代初期以来の当社の趨勢をあらわしているからだと述べている。『二宮古今記』では、往古は大伽藍で、広大な社地社領の寄付や社人社僧の奉幣に預かり隆盛であったとしている。
しかし、『城輪の出羽柵址及び国分寺址調査』によれば、『日本三代実録』以降、江戸時代の2~3の記録を除いて当社の記録は一切無く、何れの時代からか衰微して『延喜式神名帳』の記載に漏れ、慶長年間の最上義光(もがみ よしあき)の社領寄進にも漏れたとしている。『二宮古今記』によれば、戦国時代の応仁および天正年間の戦乱により、社人社僧が亡んだり逐電したりして神社は荒廃したのだと言う。
※ 逐電(ちくでん)
すばやく逃げて行方をくらますこと。