副川神社 由緒
中世には牛頭天王を祀る修験道の聖地であったと伝わるが、江戸時代に入り秋田藩主・佐竹義格(さたけ よしただ)が藩内古社の復興を行った際に式内社である「山本郡一座小副川神社」の比定地とされたことにより復興。秋田藩三国社として江戸時代を通じて30石の社領を有した。
元々山本郡とは、現在の仙北郡のことであった。払田柵跡(ほったのさくあと)から発掘された皿にも「山本」と書かれたものがある。式内社「山本郡一座小副川神社」の場所を現在の副川神社に比定するため、元々は「檜山郡」と言われた地域を「山本郡」と改名したという説がある。
元々高岳山には、宏峰神社(ひろみねじんじゃ)という祭神がスサノオである神社があったが、1714年に京都の吉田家から副川神社の存否を久保田藩が尋ねられた際に、当時の久保田藩神社奉行の茂木知教が高丘山を霊地として、宏峰神社を合祀する形で副川神社を置いたとする記録もある。古老は「ここをハタラ沢といい、保呂羽山という。山一つにして八沢あり」という。『郡邑記』(ぐんゆうき)には「保呂羽山の本営ならんという」と記されている。副川を「そいかわ」と読むこともある。
山腹第三の鳥居(通称中の鳥居)の石灯籠は、高さ約2.5mの永久常夜灯であった。かつては、八郎潟を往来する船にとって灯台の役割を果たした。
1872年(明治5年)郷社となる。