皇學館大学 沿革 略歴 再興

 


皇學館は廃止されたものの、卒業生を中心に学校を再興する気運は強く、1946年(昭和21年)9月1日には三重県知事に私立各種学校としての「伊勢専門学館」設置申請が館友代表の早川満三郎より提出された。神道指令では私立の神職養成所の設置は禁じられていなかったため、早川はかつての皇學館との違いを強調することで認可を同月10日に得、10月に授業を開始したが、三重県軍政部は教職員の多くが神宮皇學館で務めていた者であることを問題視し、「超国家主義的」であるとして同年内に閉鎖させた。次の試みとして、非皇學館出身者を校長に迎えた「清明高等学院」を1948年(昭和23年)に開いたが、入学者が少なかったために、これも自然廃校となった。



大学再興運動は、サンフランシスコ講和条約が調印され、日本が独立する状況下で再び活発化する。「日本文化研究所」の設置を目指す財団法人五十鈴会が1951年(昭和26年)に発足し、翌年には「神宮皇學館大學再興期成会」が結成された。1954年(昭和29年)、五十鈴会第2回全国大会では「日本文化の最高学府」として大学を再興することが決議され、同年9月20日には神宮大宮司宛に皇學館を短期大学として設置する案が提出され、宇治山田市議会でも大学再興の請願が採択されたが、1955年(昭和30年)、神宮は大学でなく、より純粋な神職養成所としての「神宮皇學館」を開くことを決定した。当時の関係者の一部からは「大学を再開しても学生が集まらない」、「大学を開設することで國學院大學との間で競合関係が生まれるのは好ましくなく、國學院を唯一の神道大学として充実させるべき」などの懸念や、伊勢の地にはより実践的な養成施設を置くべきであるとの意見が出されていたことからも、再興運動が一枚岩でなく、順調に進まなかったことがうかがえる。だが、運動が挫折したわけではなく、1959年(昭和34年)に吉田茂を会長に戴いた「皇學館後援会」が発足した。会長の吉田以外に、同後援会には副会長として池田勇人(いけだ はやと)、財界からは石坂泰三(いしざか たいぞう)足立正(あだち ただし)小林中(こばやし あたる)杉道助(すぎ みちすけ)太田垣士郎(おおたがき しろう)らが参加した。彼らが全国の財界人に働きかけて賛助を呼びかけたり、県が後援会からの協力要請を採択したりして大学設置への動きは加速し、1962年(昭和37年)2月17日には、関係者の長年の悲願だった大学の設置が文部省より認可された。同年4月25日には開学式が挙行され、神宮皇學館大学の再興が完成した。