皇學館大学 沿革 略歴 大学昇格と廃校
大学令が1918年(大正7年)に定められたことで、神宮皇學館を単科大学に昇格させる議論自体は1920年代より以前から一部で挙がっていたが、昇格計画が表面化したのは「大学昇格期成同盟会」が卒業生らによって組織された1934年(昭和9年)のことであった。1935年(昭和10年)には第1回調査会が、内務省神社局、神宮司庁といった関係官庁と学校、同盟会によって開かれたが、翌年の第3回調査会で、神社局により、内務省管轄での大学設置は不可能であり、神職養成のための大学を置くことは困難で、勅令手続きも難しいとの回答がなされたことで、昇格運動はひとまず学校の充実に向かうこととなった。しかし、同年頃から、伊勢神宮を中心として、国民精神高揚を目指して宇治山田市を聖地化する「大神都聖地計画」案が具体化したことで、精神的施設の必要性の観点から、神宮皇學館の大学昇格が再び浮上することとなった。1937年(昭和12年)から市会、県会、皇學館、三重県選出の国会議員らが一致して昇格運動を積極的に行った結果、1940年(昭和15年)には文部省所管の官立大学として、「神道精神の闡明」を掲げた神宮皇學館大学が置かれることが決定し、同年4月には予科第1期生を迎えて開学した。なお、内務省管轄の神宮皇學館は募集を停止し、全在籍者の卒業をもって廃止することとなった。1941年(昭和16年)には、従来の神宮皇學館に代わって神職を養成する附属専門部(3年制)が開設され、翌年には学部(3年制)が開かれた。予備教育を施す予科は別として、学部・専門部の学科課程は神道関係の科目が多く、「皇国固有ノ教学ノ基本ニ培フ学術ノ理論及応用ヲ教授」することが使命とされた。
大東亜戦争中、旧・神宮皇學館は、1942年(昭和17年)9月に本科、1944年(昭和19年)2月に普通科最後の卒業生を送り出して廃止され、1943年(昭和18年)には、文系学生の徴兵猶予が停止されたことで学部学生の約4割にあたる151名が同年12月に入営した。1945年(昭和20年)に入ってからは倉田山の校地が宇治山田空襲によって建物の多くを焼失し、8月15日の日本の降伏以降、神宮皇學館大学は国家神道を担ってきた一機関としてその命運がいよいよ危機的なものとなった。存続をはかるために、同年10月24日、大学は「皇學館大学」と改称し、神道科目を削減することを文部省に願い出、学生の側も12月に大会を開き、国家神道色を払った上で大学を存続するよう、文部省に宛てた決議文を作成したが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が神道指令を同年12月15日に発したことや、その他の大学存続案(私立学校に転換、または他大学との合併など)が決まらなかったこともあり、神宮皇學館大学は1946年(昭和21年)3月14日の勅令によって廃学・解散となった。職員は希望調査の上での転任となり、卒業生以外の学生は他の大学や高等学校・専門学校に移っていった。校地は宇治山田市が購入し、図書などは名古屋大学などに移管され、皇學館の歴史は一時中絶した。
※闡明(せんめい)
明瞭でなかった道理や意義を明らかにすること。