隠津島神社(二本松市) 境内社 

 


本殿北側の養蚕神社は旧千手堂で、かつては千手観音菩薩本尊として祀られていた。「木幡山治陸寺縁起」等によれば千手堂は治陸寺と同じく大同年中に建立されたと伝え、永禄3年(1560年)には本尊像の存在も確認できるが、天正度の兵火に罹って焼失し、後に明暦元年(1655年)の弁才天宮修復時に藩主丹羽光重から堂の再建と本尊として千手観音菩薩の立像の寄進も行われたものと考えられる。また、安政3年(1856年)頃には明徳4年(1393年)や応永2年(1395年)等の紀年銘のある大般若経が納められていたという。明治初年の治陸寺の廃寺に際して養蚕神社とされ、本尊であった立像は同寺の子院であった松本坊(現治陸寺)に遷された。



拝殿より一段下の三重塔は天満神社として菅原道真公を学業の神として祀っている。塔としては文明4年(1472年)の建立にかかり、天正年間の伊達氏侵攻による兵火を免れた数少ない建物であるが、寛永20年(1643年)に藩主丹羽光重が巡拝した当時には初層のみを残す姿に荒廃していたといい、光重の命で延宝2年(1674年)に全面改築された後、享保元年(1716年)に再度の修復を受けたが、明治35年(1902年)に暴風により再度初層を残して倒壊している。現三重塔は三度旧形に準じて大修理が行われたもの。方3間の屋根宝形造(ほうぎょうづくり)、初層は木割の太い円柱や、木鼻軒支輪(のきしりん)、軒の三手先組物(みてさきくみもの)等、ほぼ和様を基調とする。なお、屋根は銅板葺であるがもとは杮葺(こけらぶき)であった。県内にある近世以前の数少ない三重塔の遺構で、江戸時代中期の手法を残すものとしても貴重であり、昭和30年に県の重要文化財に指定された。



参道中腹、国の天然記念物に指定される大杉木幡の大スギ)の傍らに祀られる門神社の本殿は、貞亨3年(1686年)の丹羽長次による本殿造替に際して旧本殿を移設した建物で、方3間寄棟造の和様を主とした仏堂様式。移設後に虚空蔵菩薩を祀っていたという。昭和55年に東和町の有形文化財に指定された(現市指定)。なお、屋根は茅葺であったが、昭和50年に銅板葺に葺替えられた。