隠津島神社(二本松市) 由緒 式内社論争
当神社を式内社「隠津嶋神社」に充てる説があり同神社の論社とされるが、他にも論社は存在しており、そのいずれが該当するかの定説は得ていない。当神社の場合、古額に「隠津島神社」と記されていたらしい事を理由に、式内社と見るのに「聊(いささか)由あり」と考証されたりもするが、貞享4年(1687年)の「木幡山神領神田並古跡等書上」に「澳津島(おきつしま)。本社は境内南ノ谷中に有り。是社地の惣名なり」と見えるのが「隠(澳)津島」表記の初見であって、それ以前に「隠津島神社」と称していたかは不確実なものがある。近世まで専ら弁才天宮と称された事や上述弁才天宮社人阿部氏と治陸寺との主導権争いを考えると、或いは貞享から元禄にかけて阿部氏が新たに「隠津島神社」と称え出したものとも推定できる。もっとも、式内社であるか否かはともかくも江戸時代後期には「安達郡中の大社」であったという。