隠津島神社(二本松市) 由緒 ③

 


江戸時代中期以降になると次第に弁才天宮社人であった阿部氏が擡頭し、治陸寺の学頭(がくとう)と一山支配を廻る係争を起こすようになり、『木幡山志』に元文3年(1738年)、寛保2年(1742年)、明和3年(1766年)、寛政12年(1800年)の寺社奉行による裁許状4通が残されている。阿部氏は元禄12年(1699年)に神祇管領長上(じんぎかんれいちょうじょう)から官位(吉田官)を得ており、神社の本所である吉田家の権威を背景に、式内社「隠津嶋神社」である事を積極的に主張して治陸寺学頭と対立し、宝暦13年(1763年)の「安達郡神祇道宗門御改帳」には「延喜式内安達郡東郷惣鎮守、木幡山隠津嶋神社弁財天三女神」と記されているが、明和度と寛政度の裁許状において治陸寺側から「隠津嶋神社」という神社号に対する異議が出されており、寛政12年の寺社奉行の裁許により「隠津嶋神社」号は停止して「弁財天」を神社号とする事と、以後は治陸寺と阿部氏と「和融し祭祀勤務」する事とが定められた。



明治2年(1869年)に神仏判然令を受けて治陸寺との関係を断ち、弁才天宮は「厳島神社」(いつくしまじんじゃ)と改称する一方で治陸寺は廃寺とされ、治陸寺の住職亮澄が還俗して神主となったが、翌3年に阿部氏が神主(現宮司に相当)に復した事で治陸寺系の支配は完全に終わった。同9年11月に郷社に列し、同35年(1902年)に改めて現社名に改称し、同40年8月(又は7月)に県社に昇格した。なお、昭和15年(1940年)に神主阿部家の居宅及び倉庫が焼失し、その際に古文書や記録が失われている。