隠津島神社(二本松市) 由緒 

 


平安時代の後期、治承から康平年間(11世紀中半)にかけての前九年の役において阿倍氏征討の為に朝廷から派遣された源頼義義家父子が当神社に祈願を込めたとの伝えがあるが、中世以降は専ら治陸寺による一山支配に包摂され、治陸寺とともに全山が歴代領主層の崇敬を受けている。『松藩捜古』に因ると文明14年(1482年)に当時の領主で石橋(塩松)義衡の事と伝えられる源家博を大檀那として社殿の造営が行われており、その後は大内氏からの崇敬を受け、天正5年(1577年)の棟札によると塩松城城主、大内義綱(おおうち よしつな)が大檀那として造営に当たっている。天正13年(1585年)の伊達政宗の仙道(中通り)侵攻の際に兵火で社殿が焼き払われた結果、弁才天の尊像1躯、宝塔1基(現境内三重塔)、後冷泉天皇からの下賜と伝える治陸寺に対する勅願寺の額のみを残す迄に衰微したものの、その後の領主により再興され、会津藩に封された蒲生秀行(がもう ひでゆき)数千本を献植し、江戸時代二本松藩藩主 加藤明利(かとう あきとし)寛永14年(1637年)に木幡山の山林を保護する禁制を発し、元文頃(18世紀前葉)に纏められた「弁才天宮万書上帳」に因れば治陸寺は近世期には本坊12坊新坊12坊を構えた天台宗の大寺院であった。



弁才天宮は加藤氏の後に入封した丹羽家によって祈願所と定められて安達郡東部一帯の総鎮守とされ、明暦元年(1655年)に藩主丹羽光重(みつしげ)が社殿の修復と社領50を寄進、同長次(ながつぐ)貞享3年(1686年)に社殿を再建し、寛政年間(18・19世紀の交)には同長貴(ながよし)が社殿の造営を行う等、江戸時代を通じて同家により崇敬された。元禄9年(1696年)の「木幡山相改帳」等によると、弁才天宮には本殿、三重塔(現天満神社)、薬師堂(同医薬神社(いやくじんじゃ))、千手堂(同養蚕神社(こかいじんじゃ))、門神堂(同門神社)、羽山権現宮(同羽山神社(はやまじんじゃ))や現存はしないものの虚空蔵堂や筑山権現宮といった堂塔があり、本殿には御前立(おまえだち。前立(まえだて)本尊。本尊が秘仏とされる場合、その代わりとして拝観用に造立した本尊)の弁才天十五童子の木像が祀られていた。