隠津島神社(二本松市) 由緒 ①

 


社伝に因れば、神護景雲3年(769年)に安積(阿尺)国造(あさかのくにのみやつこ)丈部継足(はせつかべのつぐたり)が、3男である継宣(つぐのり)を社司(祭祀者)に定めて山中に勧請したのが創祀で、大同年中(9世紀初頭)に平城天皇の勅願により神仏が習合した両部神道に基づいて「隠津嶋神社弁財天」と称するようになったといい、これを『延喜式神名帳陸奥国安積郡(あさかぐん)に「隠津嶋神社」として登載された式内社と見る説もある(後述)。一方、近世までは木幡山山中に栄えた治陸寺(じろくじ)別当とし、同寺は同じく大同年中の開創と伝える天台宗寺院であったが、近世以前においては天台寺院とはいえ延暦寺に属すのではなく羽黒修験の影響を蒙った一山寺院(中核寺院と複数の寺社から構成される独立独派の寺院組織)であったと考えられ、それらを併せて考えると、神護景雲の神社創祀や大同の寺院開創の真偽はともかくも神霊の籠る古来の聖地に勧請された神社がその後修験道と習合したものと思われる。例えば、かつては木幡山山頂に立岩(巨岩)を背にした蔵王権現を祀る蔵王宮があり、その付近に営まれた経塚蔵王経塚)は藤原時代末期(平安時代後期末、12世紀)に複数回に亘り造営されたものと推定され、立岩は磐座であって修験道の聖地とされる奈良県金峯山(きんぷせん。山上ヶ岳(さんじょうがたけ))山頂にある蔵王権現湧出岩に見立てた祭祀が行われたものと思われ、経塚の経営も末法思想の流行に伴う弥勒下生信仰(みろくげしょうしんこう。弥勒菩薩の下生信仰)に基づいた蔵王権現信仰と如法経による供養とが相俟って行われたものと考えられるので、これは古来の聖なる山に蔵王権現を祀りその守護の下に経典を埋納したものと考えられる。なお、『三宝絵詞(さんぼうえことば)等によると金峯山は弥勒菩薩浄土黄金が埋まり蔵王権現は同菩薩下生の時までこれを守護するとの説が載るが、一方で弁才天にも黄金を始めとする授福を司る神徳が期待されており、そこから極めて現世利益的な希求を媒介とした蔵王権現信仰と弁才天信仰との習合が考えられるので、弁才天の祀られた木幡山に埋経が行われた理由も窺い得るものとなる。