志賀理和氣神社 歴史 概史

 


国史での初見は、仁寿2年(852年)に「志賀理和気神」の神階が正五位下に昇叙された旨の記事であるが、内容からして仁寿以前から神階を有する官社であったと見られている。



延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では陸奥国斯波郡に「志賀理和気神社」と記載され、式内社に列している。斯波郡では唯一の式内社で、全国の式内社では日本最北端に位置する。



律令制の崩壊ののち中世の史料はなく、その頃の様子は詳らかでないが、式内社であることも忘れられるほど荒廃していたと見られ、近世初頭には赤石を神体としたことに由来して「赤石大明神」と称されていた。この赤石に関する伝承として、高水寺城(こうすいじじょう。郡山城(こおりやまじょう))城主の斯波詮直(しば あきなお)が当地を通った際、北上川の川底に赤石があって水波が紫色に漂うので「けふよりは 紫波と名づけん この川の 石にうつ波 紫に似て」という歌を詠んだという。これに因んで郡名は「紫波郡」、社名は「赤石大明神」と称されたといい、引き揚げられた赤石は現在も境内に祀られるものだとしている。



18世紀中頃には式内社の由緒を復活し、社殿も再建されたという。天明5年(1785年)に当地を旅した菅江真澄(すがえ ますみ)の紀行文にも、当社を式内社の志賀理和気神社とする記載が見える。また、当社は盛岡藩主の南部(なんぶ)氏から崇敬され、「南部一の宮」の号が献じられたという。近世の祭祀はかつては赤石山遍照寺が別当寺として担っており、この遍照寺には寺領として慶長7年(1602年)に30石が与えられた。しかし元和年間(1615年-1624年)に廃寺となったため、一時期を百姓の田村家が継承、その後は光林寺が別当となった。



明治維新後、明治4年(1871年)10月に近代社格制度において郷社に列し、大正13年(1924年)3月26日に県社に昇格した。なお、この間の明治41年(1908年)・大正2年(1913年)の2度、国幣社昇格の請願を行なっている。