苕野神社 由緒
由緒書によれば、起源・創立年代は不明だが、社伝によれば第12代天皇である景行天皇の御世に勧請され、元正天皇(715年)の御代には社殿を創建したという。桓武天皇の時代、坂上田村麻呂が東夷征伐の勅命をうけて進軍してきた際、苕野神社にて戦勝を祈願し、無事近隣の山を支配下に置く賊徒を平定した後に、神恩への報賽として神殿を建てたという。
苕野神社は標葉郡(しねはぐん、しめはぐん)の神社の中で唯一の式内社であり、古来から郡民や領主などから篤い尊崇を集めていた。保元年間の1156年、請戸(うけど)に館を築いて標葉郡を支配していた標葉左京大夫 平隆義は、苕野神社への敬神の念がことに篤く、神社へ神領を寄進し社殿を造営するなどし、標葉氏の氏神として崇めたという。明応元年(1492年)に相馬氏の所領となると、相馬氏からも尊崇を集め、社領の寄進や社殿の造営が行われた。
苕野神社は往古は請戸地区の沖にあった「苕野小島」という島に鎮座していた。その後、波浪などで島が崩壊したため、現在の鎮座地に遷座したという。また、苕野神社は茨城県稲敷市に鎮座する大杉神社(おおすぎじんじゃ。通称:あんばさま)と関係が深い神社であり、毎年2月の第3日曜日には『安波祭』(あんばまつり)と呼ばれる「浜下り潮水神事」が催行されてきた。安波祭の大祭式典では、浦安の舞神楽・田植えおどりが舞われる他、神輿渡御、樽みこし海上荒波渡御、御潮水献備神事、早朝護摩祈祷などの神事が行われる。
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震により、浪江町の沿岸部は津波の被害を受けた。海のそばに鎮座する苕野神社も社殿がすべて流出、前宮司の家族も犠牲となった。その後も近隣の福島第一原発で起きた原子力事故の影響で2012年8月現在も警戒区域に指定されており、許可無く立ち入ることができない状態が続いている。
2012年2月19日には、岡山県神社庁と岡山県神道青年会、東京都神社庁の支援を受けて仮社殿が震災前の社殿鎮座地に造営された。 御神霊は飯舘村(いいたてむら)に鎮座する、苕野神社の分霊社である綿津見神社(わたつみじんじゃ)から賜ったものである。宮司には前宮司の三女が就任し、現在も苕野神社へ奉斎している。