天之尾羽張 古事記・日本書紀における記述 葦原中国平定
『古事記』にける葦原中国平定の段では、天穂日命(あめのほひ)・天稚彦(あめわかひこ)に次ぐ三番目に葦原中国(あしはらのなかつくに)に派遣する神を選定する際に登場する。思兼神(おもいかね)は、伊都之尾羽張神もしくは、その神の子の建御雷之男神を推薦している。天尾羽張神は天安河の水を逆にせき上げて道を塞いでおり、他の神はそこへ行くことができないので、天迦久神(あめのかくのかみ)が使者として遣わされた。伊都之尾羽張神は「恐し。仕え奉らむ。然(しかれ)どもこの道には、僕(わ)が子、建御雷神を遣はすべし」(もったいないことです。お仕えいたしましょう。ですが、この御使いには私よりも、私の子供 建御雷之男神を遣わすのがよろしいでしょう)と答えたため、建御雷之男神は天鳥船神(あめのとりふねのかみ)と共に葦原中国へ派遣されることになった。
『日本書紀』の葦原中国平定の段の本文で武甕槌神(たけみかづちのかみ)が登場する際、天石窟(あまのいわや)に住む神である稜威雄走神(いつのおはしりのかみ)の四世の孫であると記されている (1.稜威雄走神 ― 2.甕速日神(みかはやひのかみ) ― 3.熯速日命(ひのはやひのみこと) ― 4.武甕槌神)。稜威雄走神は天之尾羽張神の別名と見られる。この後、武甕槌神は経津主神(ふつぬしのかみ)と共に出雲へ派遣された(経津主神は書記のみ登場)。一説には、天之尾羽張神・伊都之尾羽張神・経津主神・建御雷之男神は同一神であるという。