采女 概略 ③
こうした律令制に組み込まれた時代の采女は、天皇の妻妾という性格が薄れて後宮での下級職員としての性格が強くなっていく。
平城天皇の改革により采女献上の制度は廃止されたが、それに伴って「采女司」も廃止になり、大蔵省「縫部司」(ぬいべのつかさ)と共に「縫殿寮」(ぬいどのりょう)に統合された。しかし嵯峨天皇の時代に采女献上が復活し「采女司」も復活した。 延喜式では采女の定員は削減され、「膳司(かしわでのつかさ)」に41名、「掃司(かにもりのつかさ)」に6名となった。また以後は采女は中央貴族の子女から選ばれる事が多くなり、形骸化してゆく事になった。江戸時代以降は天皇の即位式の時のみ女官から選抜されるようになった。この時には、女官の正装たる十二単ではなく丈の短い特殊な采女装束を着用した。