佐志能神社(笠間市) 由緒 笠間城の築城
鎌倉時代の初期、佐白山には「百字の坊舎」があり、徳蔵村の布引山(ぬのびきやま)の三百坊と敵対し、合戦に及んでいた。山道入口には坊舎の争いに使われたという「大黒石」が残っている。元久2年(1205年)、佐白勢は宇都宮頼綱(うつのみや よりつな)に援軍を請い、宇都宮時朝(うつのみや ときとも。笠間時朝(かさま ときとも))の発向を得て布引勢を討伐したが、結局双方が破却された。建保3年(1216年)、笠間を領有した宇都宮時朝は、祖国から宇都宮明神(宇都宮二荒山神社。うつのみやふたらやまじんじゃ)を勧請した。この宇都宮明神の勧請は、現在の佐白山西麓に鎮座する三所神社の由緒に属している。さらに承久元年(1219年)から嘉禎元年(1235年)にかけて笠間城を築城し、笠間氏を名乗った。
この笠間時朝による笠間領有と笠間城築城をきっかけに、佐白山から佐志能神社と城山稲荷神社が下ろされた。
· 佐志能神社は、山頂の阿武山に鎮座していたが、下市毛村に下ろされた。笠間城記に「阿武山(笠間城殿主峯の山なり)に其社ありしを、宇都宮氏笠間を領せし時、今地に遷せり」とあり、茨城県神社写真帳に「宇都宮長門守時朝此處(佐志能山)に城塁を構く、依て祠を同郡下市毛黒袴へ遷し以て鎮守となす」とある。「黒袴」は神像名の「黒袴権現」の意である。この下市毛村の旧址は、笠間市笠間(稲荷町)の「近森稲荷神社」であり、近世の地名は「下市毛村字田宿」だったという。なお、現在の笠間市に田宿や黒袴といった地名は残っていない。
· 城山稲荷神社(城山出世稲荷神社)は、佐白山に鎮座していたが、元久年間(1205~1206年)に山麓に下ろされた(境内由緒書)。元和7年(1621年)、新町(町名)形成により横小路の北に遷座し、正保年中(1645-1648年)から元禄年中(1688-1703年)にかけては井上正利(いのうえ まさとし)が笠間城内に奉斎して守護神としたが、井上正任(いのうえ まさとう)の代に転封となったため現地の笠間稲荷神社の北東に再遷座した。
このような整理が行われたにも関わらず、建長年間(1249-1255年)、佐白山には依然として「阿武宮、�路破瘕魔明神、八幡宮、稲荷社、弁天社、小聖明神」の6祠があったという(笠間便覧)。